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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第3節:村役人

村の共同体制と村役人

 村役人は、領主支配の末端機関であると同時に、村落共同体の執行機関であり、代表機関であった。だから村の権力者である。権力者はその権力におごり易い。わが儘、勝手になり勝ちである。然しこの権力者至実力者たりといえども共同体の秩序を撹乱(こうらん)することは出来なかった。その例を紹介しよう。
 これは大蔵村におこった訴訟内済の事件である。文書は年月を欠いているが幕末のものである。大蔵村の小前惣代富造、輪十郎、百姓代幸吉が名主歌之助を相手取って、川越表まで出訴した。そこでこのとり調べを小川村の頭取名主笠間庄右衛門方で行なうことにした。然し名主歌之助は病気のため出頭出来ず、その代り千手堂村の茂兵衛、根岸村要造、上唐子村辰五郎、志賀村忠右衛門、鎌形村升之助等五人の名主が出て来て、両者の仲裁をして和解が成立し訴訟を取下げた。
 この訴訟の理由は二つある。一つは昔から川除普請の手当として、年々米一俵宛領主から給与されているが、これを名主が預っておいて小前方には一切配分しないこと。もう一つは、田の年貢米に疑わしいことがあり、きまった高より三俵余分にとっているというのである。
 これについて調停者の名主たちが調査をすすめ和解の条件を協議したところ、相手方名主は、はじめの米一俵については、川除普請臨時諸入用は村方一同で負担する筈のところを名主が一人で出していたので、その経費に充てていた。然し今後はこれを村方へ差出し、川除普請は村役人はじめ小前一同でよく相談して堅固の工事をする。次に年貢米の方は、卯と辰の年に三俵宛余計に取立てたことは事実である。よくしらべたところこれは村役人の計算ちがいであった。そこで仲裁人の意向によって、この代金三両を差出して、小前百姓に割戻しをするということになった。然しこれだけでは事件の根本的解決策として両者の納得がいかなかったらしい。これは当面の問題についてだけの和解条件である。この事件の根底には、名主外村役人の給料が、あいまいであったこと、年貢の割付が公明でなかったことなど、村役人側にも小前百姓側にも不満の種が存在していた。これを抜本的に解決しなければ真の和解は成立しないわけである。それで更に次のような取りきめがなされた。

一、村役人役給は名主米二俵、組頭一斗宛とし年々年貢の貫高に割りかけて小前方から差出すこと。
一、所持高の役地引は、名主十石、組頭一石づつ、百姓代五斗づゝとすること。
一、名主が年貢や諸勘定を割合うときは組頭、百姓代、長百姓がその席へ立合って相談の上割合勘定をすること。

 これで事件は解決したのである。
 村役人の中、名主、組頭は今の町村三役、百姓代は監査委員のようなものだといったが、これは百姓代が小前百姓の側に立って、名主をチエックした例である。この事件では川除普請などの土木事業、村役人の給料の支払、年貢割当などが、村の共同の仕事としてあらわれている。名主のやり方はこの共同の仕事を防害するものとされた。共同体の秩序に反した独善(どくぜん)の行動があるからである。それで結局、名主は小前側の要求をいれ、小前側も村役人の給料を明確にするという条件で、和解が成立し、共同体の秩序が恢復したのである。村役人の勢が強いといっても共同体の規制に従わぬ訳にはいかなかったし、百姓一般も又、この秩序の維持に責任を負わなければならなかったことが分るのである。
 尚、この事件について、近隣五ヶ村の名主が出て来て、紛争の調停にあたっているが、これは勿論、何村何兵衛個人の立場ではなく村の代表の資格でそのことにあたったのであって、名主が村の代表機関である事例となるとともに村々の間にも「向三軒両隣」式の隣保相助の精神があったことを示している。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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