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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

発刊に際して

嵐山町長 関根茂章   

 私はかつて、アメリカ西部のある町の墓地を訪ねたことがあった。緑の芝生、林立する純白の墓石、そして空はあくまで澄んでいた。この公園のような墓地の一隅に、黒ずんだ小さな自然石の多数の群があるのが眼にとまった。聞けば初期の開拓者の墓石であった。風雨にさらされ、文字さえ読みとれない。荒野の開拓に力の限りをつくし、地上に名さえとどめず、消え去った人々のものであった。
 私共が何気なく看すごしている郷土の自然や風物でさえ、ましてや文明とよび文化とよばれる全てのものが、全く大多数は地上に一片の名前さえとどめず消え去った人々の智慧と努力によって創造され、また継承されてきたのである。
 過去をあきらかにし、現在を知り、未来を察するのが、歴史学の基本であるとギリシヤの史家は教えているが、郷土の過去を知りたいという感情と欲求は、この地に生活する人々にとって、ごく自然のもので、むしろ人間の文化的本能とでもよびたい心理ではなかろうか。
 人類が過去数千年間に投じたエネルギーと同量或いはそれ以上のものが、近々、二—三十年の間に、投入されるであろうと予測されている時、都心から六十粁のわが郷土嵐山町も、激しい変貌を余儀なくされるのではないだろうか。先人の築いた文化遺産や資料を今のうちにとどめなければ散逸するのではないだろうか。また私共が無意識に実践している生活慣習や言葉の中にも、先人達の、あたたかい息吹、あつい体温が感得されるのではないだろうか。
 かくて町誌編纂が企劃されたのであった。ついで昭和四十年、編纂委員会は、満場一致、野に在って悠々自適されていた小林博治氏に編集執筆を依頼いたし、爾来三年の日時を経て、茲に「嵐山町誌」の刊行をみるにいたった。
 小林氏は旧東京文理大で日本史を専攻され、長く教職に在り、戦後は自治体の執行者の一人として、郷土のために幾多の辛酸を嘗め、郷土の、風土と情緒に精(くわ)しく、町誌編纂者として、うってつけの先輩である。この人を得て、編纂の仕事は始めてなされたといっても過言ではないだろう。
 編纂委員の各位は長期にわたり、十八回もの熱心な研究会を重ねられ、常に意欲的に協力された。また町の有志の方々も貴重な資料を快よく提供された。この編纂がきびしい条件の中にも小林氏を中心として、歓喜と祈りの中に進められた。そして未開拓の嵐山の歴史の領域に、実証的、民俗学的方法のアプローチを試みられ、その結果を体系化したことは、まことに意義深く、関係各位に深甚なる敬意を表する次第であります。
 この刊行を機会に、「歴史の眼」「歴史の心」がより深く養われ、郷土を愛する心情にまで高められるならば幸いである。
  昭和四十三年八月

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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