第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
比企郡堂庵明細帳
埼玉縣管下武蔵国比企郡菅谷村字西側
同縣同国同郡遠山村(とおやまむら)遠山寺(えんざんじ)末東昌寺(とうしょうじ)持
曹洞宗通幻派*1○千日堂(せんにちどう)
一、本尊 千手観音*2
*1:曹洞宗通幻派(そうとうしゅう つうげんは)…曹洞宗は鎌倉時代に道元によって開かれた宗派。通幻派は南北朝時代に活躍した曹洞宗の名僧通幻寂霊の教えを弟子が受け継ぎ広めたが、その流れの人たちを通幻派という。
*2:千手観音(せんじゅかんのん)…すべてのものを救うため千の手を備えている観音。一、由緒
長慶寺(ちょうけいじ)轉移*1ノ后一堂ヲ建ツ、即チ千日堂*2ナリ、其后*3時ノ領主岡部ナルモノ*4多田一角*5ニ賜フ、因(よっ)テ多田山(たださん)ト号ス
昭和十年(1935)十二月三日堂宇(どうう)類焼*6*1:轉移(てんい)…轉は転の旧字。字西側の地から現東昌寺の地への移転を指す。
*2:最初は多田堂(ただどう)といった。領主岡部藤十郎から領地支配命じられていた多田平馬重勝(ただへいましげかつ)がこのお堂を建立し、岡部家の開祖岡部主水元清(もんどもときよ)の母で将軍秀忠の乳母(うば)岡部局(おかべのつぼね)の持仏であった千手観音を安置した。後に菅谷村の人たちが堂の世話をするようになってから千日堂と呼ぶようになった。
*3:その後ではなく、長慶寺を廃寺にした岡部藤十郎がその跡地を多田平馬重勝に与え、重勝がそこに多田堂を建立したのである。
*4:岡部主水から始まる岡部家の五代目岡部藤十郎。
*5:多田一角(ただいっかく)…多田一角ではなく父の多田平馬重勝が正しい。多田家は地元で「陣屋(じんや)」といわれるようになっていた。
*6:類焼(るいしょう)…他から燃え移った火によって焼けること。「菅谷の大火」で燃えてしまった。一、本堂 間口 【調査中】
奥行 【調査中】一、境内 百八坪 民有地第一種
多田亀三郎*1名受一、境外(けいがい)所有地
林(はやし)反別(たんべつ) 三反九畝(せ)拾六歩(ぶ) 菅谷村字西側
地價(ちか) 金五円九拾三銭 未定一、信徒*2 四拾七人
一、管轄廰(かんかつちょう)迄 拾里廿八町三拾七間二尺
以上畑 壹反五畝拾貮歩 大字菅谷東側一五五ノイ
地價 拾五円六拾壹銭昭和十六年(1941)三月十四日同村東昌寺ヘ所属ノ件認可*3
*1:多田家七代目。
*2:信徒(しんと)…信者。
*3:1940年(昭和15)制定の宗教団体法で,独立の仏堂はいずれかの寺院に所属することになった。1920年(大正9)から東昌寺が管理していたので、以後正式に東昌寺に属することになった。千日堂については、第6章:くらし - 第5節:寺社信仰・祭り「東昌寺観音堂物語」を参照。「昭和38年度文書 埼玉県学事課 比企郡堂庵明細帳」